心をニュートラルに、「さみしさ」をそのままに。

メリークリスマス。


ふりかえってみると、

クリスマスはあまりクリスマスらしい記憶がない。

学生時代はパーッと遊んでいたこともあっただろうけど

ほぼバイトだったんじゃないかな。


ふりかえってみると

ぼくは昔から常にさみしさを感じていた。


いちばん古い記憶だと

幼稚園のときに広場でひとりで遊んでいる記憶。

なぜかひとりで砂で遊んでいた。


ひとりで遊んでいる自体はそんなに悪いことではない。

気になるのは「さみしさ」を感じていたということだ。


記憶を探ってみても

なぜなのか?ということはわからない。

でも、ちょいちょい頭の中にはちょいちょいさみしい記憶が残っているのだ。


先日、いろいろと向き合わなければならないことがあった。

こと自体は大したことじゃないんだけど

ちゃんと自分の気持と向き合って

関わっている人たちと向き合うことが必要だった。


具体的な体験談を語れないんだけど

本音で話している、そのときのぼくの口から出てきた言葉は


「かかわりたい」


という言葉だった。


ここだけ聞いてもわからないかもしれないけど

「かかわりたい」というのは

ひとりではなく人とかかわりたいという意味だ。


そして

思わずぐっときてしまった。

思わず涙をこらえてしまった。


「かかわりたい」


この一言にどんな意味があったのだろう。


この言葉の奥に

これまでぼくが見ないふりをしていた

何かが隠れているのだろうか。


「かかわりたい」といっても

かかわっていないわけではない。


仕事でもプライベートでも

多くの人とかかわっている。

でも、ぼくの心の奥の住人は「かかわりたい」と思っている。


だれとかかわりたい?

どんなふうにかかわりたい?


それはこれから探すことにする。


でも今わかっていることは

「さみしさ」というものは自分でつくりだしている

ということ。


それは自分の行動が

さみしさをもたらす元になっている

っていう意味もあるけど


さみしさを感じているのは

自分がさみしいと思っているから。


だからさみしさを無理に

補おうとするんじゃなくて

心をニュートラルに保つということをすればいい。


心がニュートラルになれば

自然とさみしさを表現出来るようになるし

自然と求めているものを欲しがることが出来る。


メリークリスマス。

島根の町にはクリスマス感は全く無いけど

きょうは忘年会に行ってくる。


あでゅ。


自由に生きるphilosophy.