自由に生きるphilosophy.


人は都合よく生きる。そして、都合よく死ぬ。今この瞬間、起こっていることは、ぼくらの人生において、かんたんに笑い飛ばせることではないだろうか?




きのう頭を打って、流血した。




流血したというと、おおげさだが

病院で手当てするほどのことではない。



でも、久しぶりに

頭からツーって血が流れてきた。



たぶん小学校のときに

階段をいかに早く降りれるかゲームをやっていたときに

上の階段の角にあたまをぶつけて流血したいらいだ。


たしかそのときは3針くらい縫った。





今住んでいる家は、かなり古い民家で

変わったつくりをしている。


おそらく長い年月をかけて増築をしたこともあって

現代の住居環境とはまったく異なるつくりをしているのだ。



トイレに入るために2段くらい段差がある。

そして、トイレの天井は身長より低い。


用を足してトイレから出ようとしたら

足を踏み外した。


もう何百回と降りているはずなのに

なぜか踏み外した。

自分でも意味わからなかった。


こけた瞬間、壁にあたまをぶつけた。

そして、流血した。




痛ぁっ





って思った瞬間。






なぜか笑けてきた。







あたまがおかしくなったのかと思った。

でも、笑いが止まらなかった。












ぼくらが経験しているこの瞬間瞬間、

良いことも悪いこともたくさん起こっている。


きのうのさっとんみたいに

あたまをぶつけて流血している人もいれば

嫌な上司から怒られて不機嫌になっている人もいる。


恋人との人間関係に悩んでいる人もいれば

学校でいじめられて辛いおもいしている人もいる。



それはそれは

その人の人生のその瞬間にとっては

重大な出来事であり、当人からしたら笑いごとではないのである。









しかし、その今その瞬間がこの人生を生きていくうえで








どれほどの意味があるのだろう?











むしろ、その出来事に意味づけをしているのは誰なんだろう?

何がそうさせているんだろう?




ただの出来事に意味をつけて

自分を責めているのは誰なんだろう?









そうだ、自分だ。










あたまぶつけてちょっと血が出たことくらい

たいした問題じゃない。


誰かと喧嘩したり、嫌なこと言われたり

恋人と別れたって、親との関係が最悪だって


それは大した問題じゃない。








問題なのはただ一つ。









ぼくらの感じ方が問題なのだ。












何かが起きたとき、

ぼくらは一瞬にして、それを感じる。




何かが起きたとき、

ぼくらは一瞬にして、それを当たり前と信じる。




何かが起きたとき、

ぼくらは一瞬にして、それを自分の都合のいいように解釈する。











ぼくらは都合のいい人間だ。
ぼくらは都合がいいから生きていける。
ぼくらは都合のいいように生きている。



でも、都合よく死ぬこともできるのだ。









これを見ている人のなかでは

死にたいと思ったことのある人もいるだろう。



でも思い出してほしい

死にたいと思ったそのときに

都合よく死のうとしていたことを。






なにか大きな失敗をしたとき

その失敗から目をそらすために死のうとする。


だれかからいじめられたとき

強い自分になることから逃げるために死のうとする。


だれかから強く責められたとき

そいつのことを責めるために死のうとする。








そんなとき、ぼくらは都合よく死のうとしている。








ぼくらは都合のいい人間だ。
ぼくらは都合のいいように生きている。
ぼくらは都合がいいから生きていける。

でも、都合よく死ぬこともできるのだ。











今この瞬間、起こっていることは
ぼくらの人生において、
かんたんに笑い飛ばせることではないだろうか?


それはいつか人生の終わりを迎えるときに
どれほどの意味があるのだろう?



自由に生きるphilosophy.